二〇〇一年夏の仕事    文・蒲生あつ子



 夏の間、ある人の言葉を追いかけていた。MDに封印された話し言葉の端をすくい上げる、モニターに貼り付ける、流れ落ちないように十四歳の目で監視する。言葉違えを撚りあわせる、意味を紡ぐ、物語を織り上げる。まとまりを欠いた言の葉のパッチワーク。なんてしっくりこない。
 今年の夏は大変でした。からだが薬に反応して発疹が出たのです。熱も出ました。リンパ節も腫れました。多汗症にもなりました。リンパ節は小さな角のような突起で、それが突然耳の後ろに生えてきたので、束の間、鹿の気分を味わうことになりました。横になると角が枕に刺さるので、うつ伏せで眠りました。逆しまの世界を夢みました。
 MDLPの二時間がモニターの前で二十四時間に伸長する。残りあと五本。言葉の海がモニターからあふれ出して部屋の中をぐるぐる回る。エレクトリックピアノの鍵盤の隙間にもぐり込む。猫の尖った耳の先で跳ねる。ぐるぐるっと回る。ぐるぐるぐるぐるっと目が回りそう。それとも回っているのはわたしなの?
 言葉尽くしの意味の洪水に溺れて、仕事はなかなか終わらない。それは、とても、言葉に余る。




  飽 き 性  文・水野裕子


 

 人からよく「飽き性」だと言われる。確かに、いろんなものに魂を奪われてきた。
 今はまっているのは骨董市。8月18日の大須骨董市では、文化人形とフランス人形、薄汚れた日本人形のパーツを購入。25日は北野天満宮の骨董市に出掛け、アメリカ・アイデアル社の人形(タミーちゃん顔)、水森亜土の人形と壁掛け、内藤ルネの人形、江戸時代の箱に入った昭和初期のおはじきを買った。おはじきは、ぜんぜん知らないおばちゃんと共同購入して折半した。必ず同伴する同居人もガラス瓶だの酒袋、おもちゃなどを買い集めるので、このままでは我が家がガラクタ店のようになってしまうだろう。
 というわけで、去年の今頃「沖縄、沖縄」と騒いでいた形跡はどこにもない。人形を作ることと文章を書くことは、「仕事技」としてこれからも守っていけそうな気がしているのだけれど、その方向が自分でも手に負えないくらいあっちゃこっちゃ行くものだから、もう、やっぱり「飽き性」なんだろうなあ