クォリティ・オブ・ジョブ
     −水をつれてきた魔術師(1) 


【民主導の公共工事】

 愛知用水は戦後日本が取り組んだ最初の大型公共工事のひとつである。長野県御嶽山の麓に建設された牧尾ダムに貯蓄した愛知用水の水は、木曽川を流れて、岐阜県御嵩町にある兼山取水口を経て愛知県知多半島の最先端まで流れていく。その基幹水路は一一二キロメートル、支線水路は一〇一二キロメートルで、用水としては日本一長い。実際の工事は昭和三〇年に始まり昭和三六年に完成している。総工費は四二二億円。
 短期間での完成には、食糧事情の改善が急務であったことや世界銀行から資金の一部を借り入れることに成功したこと、アメリカからの技術導入など様々な要因があるが、なによりもまず愛知用水が民主導で行われた事業である点を強調しなければならない。その中心人物が知多の一農民であった久野庄太郎と安城農林学校教諭の浜島辰雄である。
 愛知用水ができるまで、知多半島は河川に恵まれず、降雨量も少なかったことから「知多農民の夏の労働の半分は水くみ作業で、ため池が満水になるのは三年に一度」と言われるほど、水の確保に苦労した地域だった。
 そんな知多農民のひとりだった久野庄太郎は、 昭和二二年の大干ばつで秋の収穫が皆無となったのを機に、 木曽川から水を引く用水を着想し、そのために自分の全人生を賭けることを決意する。活動資金は自分の田畑を当てるという破産覚悟の全くの手弁当だった。その時、久野は四六歳。決意した日から田畑には一歩も入らず、用水の必要性を説き、協力を求めて各地を歩き回る日々が始まった。
 そうした久野の活動を知って訪ねてきたのが浜島辰雄である。浜島は同じ水不足地帯の豊明市出身で、幼い頃から水不足のつらさを経験していた。二人は会ってすぐに意気投合し、翌日には実地調査に出かけ、半年後には計画案を完成している。浜島が勤務の合間につくった路線計画案は、現在の愛知用水のルートとほとんど同じという正確なものだった。
 昭和二三年に結成された受益市町村が参加した「愛知用水開発期成会」が翌年に冊子をつくっており、そのなかにこんな一節がある。
「愛知用水の発起者達は、この用水を真に民衆のものとして、民衆の自覚による民主的な力によって実現したいと希望している」
 終戦直後という状況のなかで、こうした宣言を堂々としていることに素直に感動する。いや、むしろ、一部の有力者のみに利益を生んだり、官主導の全く機能しない公共施設ばかりが目に付く現在にこそ、この宣言はより生き生きとして迫ってくる。  
(小出朝生)