【「挑戦」が輝いていた時代】
久野庄太郎と浜島辰雄はまさに絶妙のコンビだった。久野が農民を組織して行政に働きかける一方、浜島は理論と計画を具体的に組み立てた。実施調査も県や国への陳情も二人はいつも一緒だった。しかも、その費用はいつも手弁当だ。
昭和三十年に愛知用水公団が発足して、三十二年に工事に着手するまで、久野と浜島を中心とした有志たちは、それこそ全てをなげうって夢の実現に邁進した。そのおかげで、久野は親から受け継いだ土地を売り尽くし、浜島は運動のために学校を辞め、昭和二十九年頃には二人ともほぼ破産同然の状態となっていた。破産は覚悟のうえだったし、「この用水が自分達一代で完成するものとは思わなかった。一生涯走りまわって、焼杭(センター)でも打ち込んでもらえれば、後の世代が必ずつくってくれる」と信じていた。
知多出身の友人は、久野庄太郎物語というような芝居を学校でやらされたと話していた。知多では、私欲を捨て、みんなのために用水をつくった久野は、今でも子どもたちが見習うべき《偉い人》として語り継がれているのである。久野や浜島はなぜ《偉い人》になったのか。どうして、そこまで用水完成に情熱を傾けることができたのか。それが不思議だ。手がかりのひとつは、すべてを一から創り上げていかなければならなかった時代背景がある。
木曽川の水を知多半島へ引くという発想は、実は久野のオリジナルではない。以前から知多の農民たちの間で、夢として語られていたことだ。しかし、それはあくまで夢物語で、実現可能とは誰も思っていなかった。
農民同士の水の取り合いを見るたびに、久野はその夢を思い出した。しかし、冷静に考えればあまりにも途方もない事業だから、 しばらくすると夢は覚めた。その繰り返しだった。それを用水実現に向けた決意へと変えたのは、昭和十九年、二十二年の干ばつと二十年の敗戦だった。買い出しに来た老婆に闇相場よりも高い値段で買いますと手を合わされても、収穫のない農家ではどうすることもできない。いくら農耕を改良しても、働いても、水がなくてはなんともならぬ、これが決意したときの久野の気持ちだった。
聡明で着実な浜島に対して、久野はがむしゃらに突っ走る機関車のようだったという。挑戦することに情熱を注ぐタイプだったのである。そういうタイプの人間にとって、敗戦後の日本では、「挑戦」という言葉がより輝いて見えたのではないだろうか。
全てを失ったその時代は、想像を絶する過酷な生活の一方で、創る喜びにあふれ、「挑戦」という言葉が具体的なイメージとダイレクトに結びつくことができた――。 閉塞感に包まれている現代から眺めると、久野たちを動かしたのは、そうした時代だったと思えてならない。 (小出朝生)
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