みんなが持っていれば大丈夫  文・寺川眞由美

 だって、ダンナもすぐ横で仕事してるし、手を伸ばせば電話もあるし、出かける事も少ない。出かける時は立ち寄る所をちゃんと言っておけば緊急の場合でも連絡はとれる。待ち合わせ先で行き違ったり、遅れる時などはその人のケータイに電話すればまあ、連絡はとれる(しかし、この頃街中の公衆電話がどんどん減ってる。前、近くにあったハズ…とその場に行ってもない。ウロウロと探す事も多くなった)。
 ここ二年くらい冬になるとインフルエンザの予防接種を受けようか悩んでしまう。息子が保育園に行っているので親が出歩かなくても流行すれば、家族総崩れになってしまう(実際、三シーズン前の冬私とダンナは入院までした。五万円の出費だった)そんな事を保育園のお母さんと話していたら「うちは打たないよ。みんながやれば大丈夫だってば」――そうだな。たしかに。去年は「まったくそのとおり!」と思い予防接種を打たなかった。
 しかし、今冬は年末納めの仕事も重なっていてそんなことも言ってはいられず打った。仕事をスムーズに進めるための保険のようなものだと思って。
 ケータイについては…まだ「大丈夫」かな。とりあえず。(←こんな私に不自由をお感じの方、お知らせ下さい。)。




 危ないぞ 携帯  文・川口晴絵

  所沢に移転してきてすぐに、自然保護団体に入った。と言うより自然保護団体の活動をするために当地にきたのかも知れない。環境セミナーの受講も続けている。そこでいろいろ学んだ。土が一センチ出来るのに三百年かかること、石油の備蓄量はあと三十年しか持たないことや環境悪化も超スピードで進んでいて、毎年動植物の三種に一種が絶滅していることなど、恐るべき状況が進行している。そして携帯電話もあと七年で使用できなくなる。何故なら携帯の中に使われている銀だかなんだかの備蓄もなくなるからだ。
 だのに何故携帯を作り続けているのだろうか。そんなこともあって最近は携帯を回収しているのだそうだ。今や小学生までが持ち始めているこのけったいな物が無くなったあとのことが怖い。
 テーブルを挟んで向かい合って座るメイトが、互いの会話もなくピコピコとキーを打っている異様な風景が蔓延している社会で、携帯が無くなってしまったらどうなるんだろう。巷でバイトをしている若者もマニュアルの通りに言葉を発することはできても、自分の頭で考えた「生きた」言葉が話せない。と、思い込んでいるオバサンの方が怖い?