鳴らない携帯電話 文・水野裕子

 ボランティアをしていた頃はうるさいくらいだった携帯電話も、活動を退いてからはビタッと鳴らなくなった。若い娘のようにちょっぴり淋しかったりもしたが、友だちの数が減ったわけではなかった。よく考えてみると、親しい友人ほど携帯電話をかけてくる頻度が低いのだ。高校時代からの友などは、携帯を鳴らしていいかどうかを普通の電話で確認してくるほどで、お互いの携帯番号を知らない友人もたくさんいる。まるで世捨て人のようだが、もともと(黒いジーコジーコ電話の頃から)電話嫌いだったわけだから、当たり前のことなのかもしれない。
 じゃあ持たなきゃいいんだけど、年に3回くらい必要なときがあるんだなあ。万が一のときの緊急用ツールのような存在かなあ、今は。




優しい携帯電話 文・小出朝生

 話が嫌いだという意見を聞くことは多い。私自身はそういう感覚はないし、携帯電話が必要悪のような疎ましい存在と思ったことはない。 我が家には計三台の電話があるが(固定一台、携帯二台)、一カ月の通信費の合計は一万五千円以下である。 仕事にも使っていることを考えると、かなり低い方ではないだろうか。仕事以外で電話をかけることはめったにないし、当然かかってくることも多くない。 だいたいが陸の孤島のような生活をしているので、これで電話が無くなったら自分と社会を繋ぐ糸がぷっつりと切れてしまうのではないかと恐れている。
 一方で、携帯電話が手放せない女子高生のように、いつも誰かとつながっていたいという欲望は、いつまでたっても満たされないもので、最終的には携帯電話ジャンキーとなって、疎外感を一層深めるのではないかという警戒感がある。 誰だって孤独は恐ろしいから時には人と会話したいし、かといっていつも人と付き合っているとたまには一人になりたいと思うものだ。 それほど人間は自分勝手で哀しい存在なんだろう。しかし、自分勝手な思いを携帯電話の頼りない電波に託して人と人が対峙している情景は嫌いではない。 その場面では、携帯電話は全てを許す優しい存在に見えてくるのだ。