五木ひろしでさようなら   文・小出朝生


 

 ちょうど後ろの刈り上げが終わり、前髪を揃えているとき、「そうそう、主人、亡くなったのよ、二年ほど前に」と奥さんが思いだしたように言った。死因は心筋梗塞。夜中、胸が苦しいといってトイレに立った。それが最後の姿だった。
 僕は結婚式の二、三日前、はせ川理容の主人である長谷川喨一さんに、今日と同じように髪を切ってもらっていた。たいていは自分で髪を切って済ましていたが、結婚式の前ははせ川理容に行こうと決めていた。それが二年ほど前だから、しばらくして喨一さんは亡くなったことになる。そういえば、あのときも、演歌歌手のように仕上がった髪型を、外に出るとすぐにくしゃくしゃっとととのえたっけ。それは僕にとっていつもの心地よい儀式だった。
 今日も最後の仕上げが終わると、五木ひろしそっくりの僕が鏡に映っていた。奥さんが僕のよれよれのTシャツを小さなほうきででささっと払ったとき、顔を剃ったり髪を洗ったりするのは奥さんの役割だったけれども、最後の仕上げはいつも喨一さんだったことが頭に蘇った。古くさい三つの椅子、前屈みになって髪を洗う仕組み、ドラゴンズ選手のサイン色紙、店の様子は何も変わっていない。髪型さえも…。しかし、喨一さんはもういない。
 外は梅雨の晴れ間がのぞいていた。駐車場に向かう途中、頭をくしゃくしゃしたい衝動を抑えた。車に乗り込みタバコを一服。さてと、髪型はぴったり五木ひろし。
 ―――せめてもう少しこの髪型でいよう。
 そろそろと車を通りに出し、横を見ると、奥さんが外に出てありがとうと頭を下げていた。その後ろに喨一さんの姿が見えた。
 僕は五木ひろしのまま頭を下げた。
  
長谷川喨一さんは「手の仕事VOL3」特集・理容師で取材しました。