新生「手の仕事」によせて  愛と賛歌の製陶業  柴田雅光  


 

 今回から四〇〇字だそうである。短すぎる。
 いつもの私の文章なら、都会の片隅にひっそりと咲く、名もない可憐な花に心奪われ、ちいさな幸福を感じるとともに、生命の尊さ、神秘さに思いを馳せ、惜しみなく捧げたてまつり候、てな構成に持っていくのに、四〇〇字じゃなあ〜。せいぜい「きのう家族で焼肉を食べました。おいしかったです」ぐらいしか書けねえじゃねえか!
  ということで、今回のテーマは断片だそうである(ただでさえ短いのにテーマなんか決めんなよ〜)。断片といえばあれである。泪橋の下でジムを開き、「立て! 立つんだ、ジョー」てなことを言っているあれである。(まあ、四〇〇字だったら、これくらいのネタとオチで十分だな)

 

 

  キムホノ氏の器   文・小出朝生


 

 口のまわりはぐにゃぐにゃ変形しながらも、なんとか丸く収っている。織部釉が施された胴体には指のあとが三ヵ所ついている。ちょうど手に持つあたりにふくらみがあり、一番下が出っ張っている。頭を傾けて斜めからながめると、前のめりになって歩いていきそうだ。
 そうだ、この器は歩き始めて間もない子供の長靴だ。足にぴったりと合う自由な長靴。この緑の長靴を雨の日に履いてどこかへ出かけるだけで、楽しいことがたくさん起こりそうだ。出かける場所はどこでもいい。どこにだっていける。水たまりがあったら、わざと入っていこう。いつもの靴とちがってこれなら靴下まで濡れることはない。
 傘の横から空を見上げると、小さな雨粒が自分をめがけて落ちてくる。避けようとしても雨粒は顔に命中してしまう。いくらおもいっきり走って逃げても無駄だ。顔はびしょびしょ。それでも、ちっとも悲しくはない。長靴と一緒に走って帰れば、お母さんは必ず自分の帰りを待っていてくれるからだ。
 あの頃、小さな長靴は自由の象徴だった。  
 
(「菊いち」でキムホノ氏の個展を見て)